戦国大名一覧【東北・北海道編】

伊達政宗1東北の武将

東北・北海道の戦国大名の簡単説明&エピソードです。

軽~く読めますから、気軽に楽しんで下さい。

 

東北伊達政宗

 

目次をクリックしてお好きな大名に飛べます。

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伊達氏

独眼竜政宗でお馴染みの伊達氏

伊達氏は、藤原氏の末裔。

で、鎌倉時代から陸奥国(東北の太平洋側)拠点に置います。

 

伊達政宗戦国

政宗像

 

伊達氏は、もともとは常陸国(茨木県)にいて、その当時は「伊佐氏」と称していました。

それが、鎌倉時代に陸奥国伊達郡へやって来てからは、土地の名前を取って「伊達氏」と名乗ります。

 

その当時は「伊達」と書いて「いたて」とか「いたち」なんて読み方をしていました。

その後、室町時代になる頃には、だんだんと「だて」と呼ばれるようになります。

 

伊達家は、政宗のひい爺ちゃんの「伊達植宗」の頃に盛隆を迎え、奥州の覇者として君臨しました。

 

勢力拡大の秘訣は…政略結婚ですね。

地元勢力と婚姻関係を結んでから、家を乗っ取ったり、無理に臣従させたり…など。

かなり強引にやってました。

(やり過ぎて、反発もありましたが…)

 

その後、伊達政宗の代になってからは、戦で領土をガンガン広げて行きまます。

 

しかし、西の方から豊臣秀吉の脅威が迫って来て、頭打ち。

もうちょっと早く生まれていたら、秀吉の好きな様にはさせなかったかも知れません。

 

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関ヶ原の戦いでは、東軍(家康側)について62万石の所領を得て、その後仙台藩を開く。

 

今はみんなフツーに「仙台」って書きますけど、もともとは「千代」という地名でした。

それを政宗が、千代→仙台に改名したんです。

 

ちなみに、大河ドラマの「独眼竜政宗」では渡辺謙が主演。

懐かしいですね。

 

政宗エピソード3選!愛姫や三日月マークなど…

 

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南部氏

南部氏は、もともと武田家の一族。

甲斐国巨摩郡(山梨県)の南部郷に所領を持っていたので、当時から南部と名乗っていました。

 

南部利直戦国

南部利直

 

その南部氏が奥州合戦(鎌倉時代)で武功を挙げて、陸奥国糠部(ぬかのぶぐん・青森県)に土地を貰い青森県に住み着くようになります。

 

ちなみに糠部郡は馬の名産地。

そこで、どの馬がどこの牧場(戸)で生まれたかが分かるように、馬の産地を一戸(いちのへ)、二戸(にのへ)、三戸(さんのへ)・・・と区別していました。

これらは現代でも、地名として残っていますよね…八戸空港とか。

 

 

南部氏は、戦国時代に入ってから家臣のクーデターを乗り越え、安東氏との戦いを繰り広げながら、北陸奥の支配権を確固たるものにします。

 

しかし…戦国期も終盤にはいると津軽為信(すげー強い)が勝手に独立したり、九戸政実(すげー強い)が反乱したりで大変苦労します。

さらに、伊達政宗がチクチク攻撃して来るので、悩みが尽きませんでした。

 

ただ、この時期になると豊臣秀吉や徳川家康の力が陸奥にも及ぶようになり、戦国時代も終焉を迎えます。

こうしてやっと、波乱の南部氏も次第に落ち着きを取り戻すようになりました。

時代の変化に助けられたのです。

 

江戸時代になってからは、南部利直盛岡藩の藩主となります。

ちなみに盛岡名物のわんこソバは、利直の好物。

 

南部わんこそば

 

南部利直 【盛岡藩初代藩主】わんこソバ&陸奥国

 

盛岡藩は、そのまま江戸時代を貫き明治維新を迎えました。

南部氏は鎌倉時代から明治維新まで、ずーっと同じ場所に居続けた数少ない大名の一つです。

 

 

津軽氏

津軽です。

津軽海峡冬景色の津軽。

 

津軽氏は元々南部家の家臣(南部の分家筋に当たります)でしたが、1571年に津軽為信がクーデターを起こして独立に成功します。

で、この津軽為信が津軽氏の始祖であります。

 

戦国津軽為信

 

その後、津軽氏は南部と所領を巡って争いました。

しかし、為信がうま~く豊臣秀吉に取り入りいって「よし、わかった津軽は為信の領地だ」

と言わせてしまう。

為信は、要領のいい人なんです。

(南部は悔しかったでしょうね)

 

関ヶ原では東軍で戦った為信は、弘前藩の藩主となりました。

通称津軽藩4万7千石です。

 

津軽氏の主張では「ウチの家系は陸奥国の国人・大浦氏の流れを引いている」

と言っていますが、それは南部との血縁を断ち切りたいがための意見。

現在の説では、津軽氏は南部氏の傍系という考えが主流です。

 

 

安東氏

安倍氏の末裔を称していて、平安時代から出羽国檜山(秋田県)を拠点としている一族。

(勢力範囲は秋田~青森~北海道の一部にまで及びます。安倍晋三→自称・安倍氏末裔)

 

安東氏は、鎌倉時代に分裂して2派に分かれますが、戦国時代に入ってから安東愛季(ちかすえ)が統一します。

 

安東愛季戦国

安東愛季

 

ところが今度は、安東愛季の息子、実季(さねすえ)が従兄弟とバトルしちゃって…

それが惣無事令違反に引っかかり、秀吉に所領の三分の一を没収されました。

 

江戸時代には出羽国(秋田県)から常陸国(茨木県)にすっ飛ばされて、常陸国宍戸藩主に収まります。(宍戸藩→茨木県笠間市)

5万石です。

 

 

最上氏

最上氏は足利家の流れを汲む士族。

 

最上氏は室町幕府が始まった頃から、羽州探題(幕府の出張所)を受け持っていました。

で、そのまま出羽国最上郡に住み着いたので「最上家」を名乗るよになります。

(最上氏元→元・斯波氏)

 

最上義光戦国

最上義光像

 

戦国時代に入ると伊達家と争いながら、庄内地方(山形県の日本海側)を平定します。

(最初はだいぶ伊達に押されていました)

 

関ヶ原の戦いでは東軍に入り、その後57万石まで加増され最上家のピークを迎えます。

しかし、最上義光の跡継ぎ問題でトラブル発生。

これを幕府つけ込まれて、一気に1万石までダウン( ゚Д゚)

 

最上家の盛隆を極めた12代目当主の最上義光は、お隣の伊達政宗に比べるとしょぼくてイマイチ目立たない感じがしますね。

でも、テレビやマンガなどで取り上げてくれれば、もっと盛り上がると思います。

地元では大人気の殿様ですから。

 

【最上義光】羽州の狐は出羽国の英雄、地元じゃ大人気

 

相馬氏

相馬氏は平将門をご先祖様に持つ氏族。

陸奥国行方郡(福島県)と下総国相馬郡(千葉県)を本拠地にしていました。

(※途中で二手に別れたので)

 

相馬の当主は代々めっちゃカッコイイ。

すげー男っぽいんです。

 

相馬 師常武将

相馬 師常

 

小田原攻めに時は、豊臣じゃ無くて北条に付く。

伊達政宗に攻め込まれても、へこたれない。

関ヶ原の合戦に参戦しない。

 

相馬氏は自分より強いヤツを相手にしても、絶対に靡かないんです。

 

相馬義胤は関ヶ原に出なかったので、一度は改易を食らいましたが、徳川家の本多正信がが味方になってくれたので、領地を取り戻せました。

その後の相馬氏は相馬藩を開き、明治維新を迎えるまでずーっと存続してます。

葛西氏

桓武平氏の一族である葛西氏。

 

元々は下総国葛西(千葉と茨城の間)の出身で、奥州合戦(1189年)で武功を上げたのを切っ掛けに陸奥国に領地を貰います。

 

葛西清重戦国

葛西清重

 

宮城県石巻に本拠地を置き、室町時代に勢力を広げました。

しかし、だんだん仲間割れしてきて勢力が衰えて来たので、伊達家から養子を入れて盛り返そうとします。

(上手くは行きませんでしたが…)

 

戦国時代に入ってからは伊達家と組んで、大崎家との戦いをくり返します。

 

そして、1590年の小田原合戦葛西晴信は…参戦せず!!

(いい根性してますね)

おかげで晴信は、秀吉の機嫌を損ね領地没収はとなりました。

その後は、行方不明です。

 

 

大崎氏

足利家の流れ汲んでいる家系。

つまり、最上氏とご先祖様が一緒です。

大昔の話ですが…。

 

大崎氏は陸奥国玉造郡(宮城県大崎市)を本拠地にしています。

 

宮城県大崎市戦国

 

最上が羽州探題で、大崎は奥州探題を勤めます。

強大な権力を持ち当時、伊達も南部も大崎の前ではヘーコラしてました。

(室町時代の話)

 

でも、家中で仲間割れが起こり大ピンチに陥った時、伊達植宗(政宗のひい爺さん)に助けてもらったら…今度は伊達と大崎の力関係がひっくり返ってしまった!

 

で、つぎは同族の最上と組んで伊達に対抗しますが…政宗が出てきやがって、なかなか勝たせてもらえず…。

結局、1589年に伊達の傘下に下ります。

 

そしてそして、1590年の豊臣による小田原攻めに…大崎氏は参陣せず!!

おお、何たる事よ!

こんな事して、タダで済むわけないですよ。

 

その結果、大崎氏最後の当主大崎義隆は秀吉に所領を没収されてお家は取り潰し。

その後は蒲生家に行ったとか、最上家の世話になっていたとか、はたまた上杉か??みたいな状態。

 

行方不明なんです。

かつては、奥州を代表する大名だったのですけど…。

 

蘆名氏

 

蘆名氏相模国三浦郡蘆名(神奈川県の三浦半島)出身の一族。

 

もともと神奈川県の方に居た蘆名氏は奥州合戦(1189年)で活躍した後で、陸奥国黒川郡(福島県会津若松)に所領をもらい会津に移って来ました。

 

戦国蘆名盛氏

蘆名盛氏

 

戦国時代に入って、蘆名盛氏の時に最盛期を迎えますが…後が続かない。

跡継ぎが、ちゃんと繋がっていかなかったのです。

 

「こりゃ、いかん」と蘆名氏は、養子を連投してなんとかお家を維持しようとするんですが、下り行く勢いは止められませんでした。

で結局は、摺上原の戦い(1589年)で伊達政宗にトドメを刺されて会津を失います。

 

戦に敗れた蘆名義広は、兄さんの佐竹義宣(よしのぶ)のいる常陸国(茨木県)まで逃げます。

しかし、義宣兄さんは関ヶ原の合戦で上杉討伐をまかされた際、伊達政宗と一緒に攻めにゃならんと、分かると家康の命に背いて兵を止めてしまいました。(政宗が嫌いなんです…)

 

義宣は当然、家康からお仕置きを食らって茨木県から秋田県に飛ばされる。

そして、義広もそれについて行き、秋田県の角館に住みました。

 

角館で新たな人生をスタートさせた義広なんですが、残念なことに子供たちが相次いで亡くなってしまい、ここで蘆名氏の断絶は決定的となります。

 

 

田村氏

坂上田村麻呂末裔である田村氏

かなりい古い家系ですね、奈良時代から続いている氏族。

田村麻呂と言えば、元祖征夷大将軍

 

武将坂上田村麻呂

坂上田村麻呂

 

本拠地は陸奥国田村郡(福島県三春町)。

 

田村家と言えば、伊達政宗の奥さんが田村の娘さんです。

愛姫です。

 

田村家は娘を伊達家に嫁がせることで、お家の安泰を計ります。

相馬氏とか、佐竹氏とか、蘆名氏のエサにされそうだったので、伊達と同盟を組みました。

 

しかし、小田原攻めへの参戦をサボったために改易処分を食らいます。

(政宗が参陣を抑えたと言う話もありますが…)

 

その後、田村氏は政宗の孫の代になって一関藩(岩手県一関市)として復活します。

伊達家の世話になりながら。

松前氏(蠣崎氏)

松前氏は北海道の大名。

発祥は陸奥国田名郡蠣崎(たなぐんかきざき=青森県むつ市)とされています。

 

松前慶広戦国

松前慶広

 

むつ市は本州最北の下北半島ですからね、めっちゃ寒いですよ~。

津軽海峡冬景色です。

 

出自は南部氏の一族とか、若狭武田氏の一族など言われていますが…どっちにしても、清和源氏系のお家柄です。(南部氏は甲斐武田氏の流れですね)

蠣崎氏(後の松前氏)は安東氏の統制下の北海道で豪族をやっていました。(室町時代の頃)

 

北海道の豪族や武将たち(和人)はアイヌの人たちと交易事業をやっていたんですが、ある日交易のトラブルがこじれて和人とアイヌの戦に発展します。(コシャマインの戦い

和人の勢力はアイヌの攻撃にコテンパンにされ壊滅状態。

 

戦国アイヌ

 

しかし、それを救ったのが蠣崎の武将である武田信広でした。

これ以降、蠣崎氏は北海道の和人のリーダーとしての地位を固めます。

その影響力は遠く樺太までも及び、樺太系のアイヌ首長からも貢物が贈られるほど。

 

戦国時代に入ると、蠣崎慶広は豊臣秀吉に北海道全体の支配権を認められ、名前を蠣崎から松前に改称しました。(蠣崎慶広→松前慶広)

 

松前はアイヌ語の「マトゥマエ」から取ったのも。

江戸時代では松前藩を開き、明治維新に至るまでずーっと継続します。

 

ちなみに、松前漬け江戸時代に考案された松前の郷土料理です。

美味しいですよね~。

 

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