天下分け目の関ヶ原

日本中の大名が、東西の軍に別れて戦います。

 

44島津関ヶ原

 

島津家も「一応」西軍の一員として参加しますが、ちょっと違和感…

「オレたち島津は、西でも東でもない…島津なんだわ。勝手に、三成とか家康で日本を分けるなよ」

で、関ヶ原には来ちゃったけれど、別にどっちの味方ってワケでもないし。

 

そこで選んだ「島津の退口」。

西軍でもなけりゃ東軍でもない、島津の進んだ道は…地獄をブチ抜く怒涛の帰り道。

ズタボロになりながらの強行突破…。

ちなみに、鹿児島では島津の退口を讃え、今でも島津のお祭りをやっています。

島津義弘という男

島津義弘は島津4兄弟の次男。(義久、義弘、 歳久、家久)

 

戦国大名一覧【九州編】島津、大友、龍造寺…1

 

4兄弟はそれぞれに個性があるんですが、義弘の特徴は、男っぽい性格と戦場での強さです。

で、どのくらい強いかというと…。

 

例えば「加久藤城の戦い」伊東氏3000VS 義弘230 → 義宏の勝ち

泗川の戦い」明、朝鮮軍200000(諸説あり) VS 義宏7000 → 義宏の勝ち

 

10倍ぐらいの敵勢を相手にして勝っちゃうんです。

そこで付いたあだ名が「鬼島津」。

 

強さの秘訣は、士気の高さでした。

戦は作戦の巧みさももちろん大事なんですが、やる気の無い軍はやっぱ弱いんです。

 

島津軍の家臣は、義弘という男を大変尊敬していましたし「大将と一緒に戦うんだ」という気概で攻めるので、ゼニカネに釣られて戦うとはワケが違います。

また義弘も、戦場では自ら先頭に立ち、肚をくくって「俺についてこい」と言える武将でした。

 

そして「関ヶ原」東軍?西軍?いいえ島津軍です!

秀吉が死んで、絶対的リーダーを失った豊臣の勢力は、石田三成徳川家康が覇権を争って分裂状態になります。

そして、これが発展して関ケ原の戦いになっていくワケですね。

 

全国の戦国大名は、家康(東軍)につくか、三成(西軍)につくか頭を悩ませます。

当然、みんな勝ち馬に乗りたいんです。

 

だけど、島津は「俺は俺」。

 

どっちにも入りたくないんです。

「勝手に西とか東とか決めないでくれよ…」そんな思いでいた事でしょう。

 

でも、このまま無視しててもいずれかは東西の勝者が島津を攻めに来る。

東西を統一した勢力ですから、そりゃ強いでしょう。

そうとなれば、さすがの島津でも歯が立たない。

 

ならば、やっぱりどちらかに所属しないといけない…どうしよう??

 

で、義弘は悩んだ末に東軍に入る事にしました。

家康からもお誘いがあった事だし。

 

朱印船貿易とは相手国いつから?8

 

そして、義弘は軍を率いて東軍の伏見城に向かいましたが、なんと…お城に入れてくれない!

せっかく来たのに…

 

どうも島津家は東軍としては信用がイマイチで、いずれ西軍に寝返るのではないかと思われていた様です。

そこで、伏見城の家臣は「島津は怪しい」と判断して、島津を追い返してしまいます。

(東軍加入については諸説あるようです)

 

次に向かうは、西軍の三成の陣営です。

こっちのほうはOKでした。

(義弘の奥さんは、三成に人質として取られていました)

 

11石田三成

 

でも、基本的に島津はどっちの味方でもないんです…。

 

一応、兵を率いてやってきましたが、その数は200人しかいません。

(少なすぎて、ちょっと肩身が狭い)

 

島津の国力なら1万人ぐらいが妥当なんですが、本国にいる兄さんの義久が兵を出してくれないんです。

 

気持はわかりますよ。

乗り気じゃないですもん。

 

なんであいつらの争いに、俺たちが手を貸さなきゃいけないんだって…

(地元でも、ちょっとゴタついていました)

 

だけど、義弘は覇権争いの現場を目の当たりにしてきたので、ヤバい感じを知っています。

このまま無視してたら、別の形でとばっちりが来るのが目に見えていた。

 

きっとこの時、義弘はもの凄いストレスを感じたことでしょう。

 

東はダメ、西でもやりづらい、故郷の兄貴も分かってくれない…それでいて島津の未来は義弘の双肩にかかっている。

(こんなに少ない兵力で何をしろって言うんだよ。 しかも、よそ様の戦じゃないか。 だけど、これを避けて通れる道はない。)

 

脱出への道

しかし、開戦に向けて時は刻々と過ぎます。

そこで、このままではどうにもならないので、義久兄さんに援軍を要請します。

 

そして、義久は援軍を・・・送らない!

あちゃー!

 

11島津義久
島津義久

 

義久兄さんは申し訳程度の軍勢を参戦させて、東西のどちらともまともに戦わず、物事をうやむやにしてやり過ごす…つもりなのかも知れません。

 

でも、それじゃダメなんです。

 

そんな中途半端な事してたら東西のどちらが勝っても島津はコケにされて、終戦した後にどんな因縁を吹っ掛けられるか分からない。

ああ~、兄さんは分かっとらん!!

(何度も催促しましたんだけど、、)

 

そこで義弘は、かつて一緒に戦った戦友たちに直接呼びかけます。

 

メッセージは「義弘は困っているので助けてください、、」

じゃないですよ。

 

今こそ忠義をつくせ!

なんです。

 

これは、主従に真の信頼があるからこそ出て来る言葉です。

現代人の感覚だったら、到底理解できないでしょう。

 

ピンチに陥った人に「俺について来い」なんて言われても誰もついて行かないですよね。

無駄に死ぬ様なのもですから。

 

しかし、島津武士は違うんですね。

 

「俺たちの大将が行先を示してくれた!今こそ従いて来いと言っている!」

と考えるんですね。

 

忠義の心を持つ者は、真に武者震いした事でしょう。

「よっし!もちろん行くさ!義弘さん、待ってろよ!」

 

そして、九州から京都へと馳せ参じます。

すっごい遠いと思います。

しかも国の方針に背いている。

 

だけど、家臣たちは義弘への忠義を尽くすため、続々と京都に結集します。

 

嫌なら、行かなくてもいいんです。

島津家の判断は「行くな」ですから。

しかも、旅費は自腹。

 

それでも集まった島津の武士たち。

総勢1000人

 

軍勢としては少ないけど、これだけ人が義弘に命を預けたのです。

もちろん、生きて帰れる保証などありません。

 

ただ、その代わりに最高の忠義を尽くすことが出来る。

(戦国武将って、頭がどうかしています)

 

義弘は、京都に到着した家臣の一人ひとりに、労いの言葉をかけます。

いや、労いなんてものじゃないですよ。

言葉にならない感情。

 

そんな思いが、島津の軍団を包み込みました。

 

いざ開戦

兵が揃い、いよいよ開戦の時を迎えます。

だけど、もの凄い違和感を感じます。

 

島津は一応西軍なので、石田三成たちと一緒に戦っているはずなんです。

でも、三成は西軍劣勢になって退却する時に、島津を放っぽらかして見捨てようとするんです。

 

石田三成関ヶ原11

 

こりゃもう決定的に信用できません。

 

こんなの主従の立場が逆だったら、完全に裏切り行為です。

上の立場だから好き勝手やってますけど、本来は許されません。

 

義弘はあらためて「ダメだこりゃ…」と思いました。

 

関ヶ原本番

さて、1600年9月15日

関ヶ原では、東西の両軍が合いまみえ、午前8時に開戦しました。

 

戦いは、一進一退の激戦。

しかし、島津の軍は全然動かない。

 

せいぜい、攻め入って来る敵を払いのける程度。

(と言っても激戦の中ですから、楽じゃないです)

 

それを知った石田三成は、島津に参戦するよう仕切りに催促します。

 

これに対して、島津の家臣はこう答えました。

今日の戦、島津は島津のやり方でいきますので、三成殿も心得ておいてください」と。

 

やがて戦況は、東軍がリードする形になり…西軍は敗走して逃げ去ります。

 

では、島津は?

敵中にぽつーんと取り残されていました。

 

しかも、攻め込む東軍を払いのけているうちに、1000人の兵士は300人に減少。

 

つまり、島津は100倍以上の敵軍に、取り囲まれてしまったのです。

もう絶対に無理。

生きて帰れない。

 

でも、これこそ義弘が待ち望んだ状況。

と言うのは、100対1で討ち損じたら、軍隊としてはかなりみっともないワケですね?

 

弱小の島津が東軍の鼻を明かすとしたら、絶対に勝てる戦を勝たせない、という方法しかないのです。

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島津の退き口

そして、いよいよその時がやってきました。

 

12島津関ヶ原

 

義弘は立ち上がり、敵の中央めがけて「つっこめーっ!」。

 

だけど、無暗に東軍を攻撃しちゃダメ。

生きて関ヶ原を抜け出しても、あとで逆賊とみなされて、ペナルティーを食らうとマズイですから。

 

島津軍は陣を整え、東軍の分厚い群れの中へと突進していきます。

100倍以上の敵の敵ですから、進んでも、進んでも敵が現れる。

 

しかも、その行く手に福島正則とか本田忠勝と言った、モンスター級の武将が待ち構えている。

も一つおまけに、前進する島津軍を後ろから追いかけて来るやつもいる。

 

いくら、島津でも後ろから襲われると辛いんです。

目は、前を見るようについていますからね。

 

そこで、島津軍は決死の戦法をとります。

 

それは「捨て奸」(すてまがり)という戦法で、生身の人間が盾となって、敵の追撃を遮るという作戦です。

普通の人だったら、絶対にやりたくない戦法ですね。

 

22島津関ヶ原

 

しかし、義弘に忠義を誓った家臣たちは一人、また一人と自らその役を引き受けました。

ただ、進めば進むほど、島津の兵力は削られていく。

 

軍勢の力が途切れそうになりつつも、義弘は敵軍をかき分けかき分け前進し、やがて伊賀を越えて、堺の港に辿り着きました。

そして船にのって、薩摩に生還。

この時、義弘に着き従って残った兵の数は、わずか80人と言われています。

 

1000人から80人ですから、ほぼ殲滅なんですが…これは大変意味のある事なんです。

 

義弘は生きて薩摩に帰る事ができましたので、戦後の軍法裁判で家康と直に対峙できる。

そうすればちゃんと家康の命に従った事、伏見城で島津が追い払われた事、東軍に対して攻撃しなかった事、など訴える事が出来ます。

 

義弘の訴えは十分スジが通っているので、ここで家康が変なイチャモンをつけたら、武士の信用を損なう事になります。

 

そして、関ヶ原の戦いの後、家康は島津に追撃を加える準備を進めますが…軍事制圧には至りませんでした。

家康は三成には勝ちましたが、三成派でない豊臣系の大名や武将たちは、心底徳川に服従しているワケではありません。

 

また、九州の大名たちには、島津討伐のフォーメーションを組むように伝えてはいますが…黒田鍋島なんですよねぇ。

官兵衛と直茂、この人達は頭がいいし、もし反旗を翻して無傷の島津と手を組んだりしたら、今までの苦労が水の泡…

 

こうして、家康は島津討伐のスイッチが押せぬまま、島津との和平交渉に入ります。

 

さらに、東軍の武将たちからも「島津は敵ながら天晴れ」という声が上がり、義弘に追い風が吹きました。

交渉の仲介には、井伊直政近衛前久(武闘派の公家)が当たり、福島正則なんかやたらと島津の肩を持つ。(この人たち島津ファンなんだよね…)

 

11福島正則
正則

 

家康としたら、関ヶ原で島津を討ち取れなかったのが心残りで仕方がない所。

しかし、それをさせなかったのが島津義弘であり…そんな義弘だからこそ、戦後の風向きを変える事が出来ました。

 

よって、島津家にはお咎めなし、領土安堵が約束されます。

義弘はたった、1000人の兵力で島津家を守り切りました。

 

巨大勢力に媚びることなく、貫き通した島津の侍魂。

それを知っているからこそ、多くの家臣たちは義弘にその命を預ける事が出来たのでしょう。

 

義弘の勇気は、その後も薩摩で長く語り継がれ、西郷隆盛大久保利通にも大きく影響を与えました。

 

11西郷隆盛

 

ちなみに、鹿児島の三大行事の一つに「妙円寺詣り」というのがあります。

このお詣りは、島津義弘を偲んで甲冑を着て40kmの距離を行軍するイベント。

楽しそう…